治療者を信じること
不登校―いまやだれもが一度は耳にしたことのある言葉です。近年とくに深刻な社会問題となってきており、事実その数もふえてきているようです。しかしその反面、これらの子どもの"心の病気"に対する知識について、十分な情報が提供されていないのが現実です。
このような子どもを前にして、家族は対応の仕方がまったくわからず、ただ医療機関を転々としてみる。親類や親兄弟に言われるままあれこれ試しては右往左往する。現実から逃れるかのごとく自分の仕事や趣味といった活動に没頭する、などの姿がみられます。あるいは学校や他人に任せっきりで治療に参加するという意識を失ったり、そもそもこうなったのは世間や学校のせいだと逆恨みして、子どもともども自宅に引きこもってしまい、せっかくの治療チャンスを拒絶する。はたまた神頼みと加持祈とうに熱中したり、正体のしれない民間薬や民間療法を子どもに強制したり……。これ以外にも枚挙にいとまがないほどいろいろな対応が見られます。
これらの対応のなかには、偶然運よく子どもによい結果をもたらすものもありますが、多くのばあいはただ治療の機会を失い、無駄に時間を過ごさせ、そうしているあいだに病気のほうは重症化する―というのが常のようです。
こうしたケースはいずれの場合も家族や周囲の人たちが子どもの心の病気に対する、ある程度の正しい知識をもっていたならば、そうなるのを防げたはずです。私はこの本を、そのような不幸を繰り返さないためにと願って執筆しました。
そこで、子どもの心の病気とはどういうものなのか、どうしてそうなるのか(原因)、どうすればそのような子どもをつくらないように予防できるのか、どうすれば早期に発見し、早期に治療に向かわせることができるのか、というところを中心に話を進めていくつもりです。
したがってすでにどこかで治療を受けている子どものある家庭にはあまり役に立たない話となります。不登校、あるいは子どもの心の病気に対する考え方には多くの意見があり、治療法も治療者によってまちまちです。ところがどの治療施設でも、実際の治療成績はほぼ同じくらいの数値になっているようです。私はこの本のなかで、いろいろな意見や考え方にも触れていきたいと思いますが、全体としては私の考えに偏った稿となるのは否めません。ですから、現在すでに専門家にかかって治療を受けているばあいはその先生の理論と治療法に耳を傾けるべきです。心の病気の治療で大切なことは、治療者を信じその指示に従うことです。治療者のあいだを転々とすることはせっかくの積み重ねがすべて無駄になるだけでなく、絶対に子供の治療のプラスにはならないことを、この本の最初に確認しておきたいと思います。
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ただの"ズル休み"
A君は小学校二年生。それまで別に変わったこともなく親の言うこともよくきくいい子だった。ところが二年生の新学期が始まって少したったころから、朝になると「頭が痛い」とか「おなかが痛い」とか言ってメソメソすることが多くなった。
親は心配して医者に連れていくと風邪薬をくれた。そういえば体温は三七度くらい、微熱もあるようで、その日は学校を体ませた。夕方には元気が出てきて、見舞いに来てくれた友達から受け取った連絡ノートも見て、学校の支度をした。
ところが翌日またおなかが痛くなった。「少しぐらい我慢しなさい」と言ったら泣き出してしまった。パジャマも着替えようとしないので仕方なく学校に電話してもう一日休ませた。三日目の朝になるとさすがに母親も変だと思った。医者に連れていくと「もう治ってます」という。が、まだグズグズしている。きっとズル休みにちがいない―。しかってその日は学校に行かせた。
こんな経験をおもちのお母さんはいませんか。いえ「そんな経験したことない」というお母さんのほうが少ないんじゃありませんか。でも、それが不登校の始まりだとしたら……。
実際、A君の症状は一つの典型的な不登校の始まりです。ところがほとんどの子はただの二日間の"ズル休み"で終わってしまって、そのまま不登校にならずにすんでしまいます。しかしA君に似た症状の子どものなかに、何人かに一人本当の不登校の子が潜んでいるのです。
ではどうすれば不登校と見分けがつき、どんな時にそう疑えばいいのでしょう。A君をいきなり不登校だと疑うのはかわいそうですし、本人も傷つきます。やはり注意深く様子を見るなかで少しずつわかってくるのだと思います。
大切なポイントは頭の片隅に「不登校」という言葉をしまっておくことです。そうして症状が二週間以上続いていたり、毎朝登校する時間になると症状が重くなり、夕方の下校時間が過ぎると目に見えて軽くなる。日曜は意外に元気なのに月曜の朝はまったくダメ。夏休みが近づいてくると元気になるが、夏休みが終わるころまた悪くなる。頭が痛いと休んでいるわりに、テレビやファミコンに熱中する。毎日「おなかが痛い」というのにタ食はしっかり食べる―。こんな理屈に合わないことが目立ってきたときに「もしかしたら……」と疑って、しまっておいた「不登校」の言葉をもち出すといいでしょう。
このような子どもはどこの病院で診てもらっても「大したことはない」「気のせい」「検査では正常です」「もう治っているはず」とか言われることが多いのですが、こんなばあい、親が医者を疑って、あちこちの病院を転々とすることは、不登校の発見と治療を遅らせる原因の一つになります。
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家族の力がバラバラ
さて、小学二年生になって早々に二日間ので"ズル休み"をしたA君はその後どうなったでしょうか。母親にしかられて学校に行くことは行ったのですがどうもスッキリしません。三日ほどはよかったのですが、翌週の月曜にまたおなかが痛くなってしまいました。今度はいままでとちがい「痛い」と言って泣き叫びます。
祖父に仕事を休んでもらい大きな病院に連れて行きました。ところが病院に着いてみると痛みは治まってきています。小児科の先生は「盲腸は五歳の時に切ってありますし、便の様子から腸炎でしょう」と言いました。薬をもらい、二日間家でおとなしく寝かせると、おなかの痛みもなくなりました。三日目に病院に行くと「便も正常、もう治ってますよ」と言われました。
しかし翌日の朝、A君は母親の期待を裏切って、またおなかが痛いと訴えました。「もう治ったから大丈夫って言われたでしょ」と言っても、目に涙をためて靴をはこうとしません。「お母さんがついていってあげるから、学校に行きましょう」と説得してようやく一時間目の途中から登校しました。
母親は一時間目の終わった後、担任の先生にこれまでのことを話すと「不登校かもしれません。ここで休ませるとくせになりますから、毎日送ってでも連れて来てください」と言いました。
「不登校」の一言にショックを受けた母親はその日、夕方まで何をして過ごしたか覚えていないほどでした。父親が帰ってくるやいなや、子どもたちを祖母のところに行かせ、相談しました。父親は寝耳に水といった表情をした後「こういうことは年寄りの知恵を借りるのが一番だ」と言って祖父のところに相談に行きました。
話を聞いた祖父は形相を変えてやって来て「こんなことになったのはお前が甘やかしすぎたからだ。うちの家系にはそんな変な者はおらんのにこれじゃ一家の名折れだ」と厳しく母親を責めました。母親は″こんなことなら相談しなければよかった″と内心思いつつ、あすからのことを考えると途方に暮れるばかりでした。
翌朝、意を決したようにA君をおこした母親は着替え、そして食事をさせました。終始無言の食卓の向こうで祖父の厳しい目が光っていました。A君はいつもとちがう家族のムードに圧倒されたのか、この日は素直に母親の言うままに手を引かれ学校に行きました。
このようなケースは不登校の初期にしばしば見られるような場面です。A君の不登校という行為の波紋が家族全体に広がり、それに対して家族の一人ひとりが反応しているのがよくわかります。もし一人ひとりの反応が全体としてA君の不登校を治す作用に統合されたなら、A君の病気は家族の力で治ります。しかし全体がバラバラになってしまえば、病気はさらに悪化します。
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家族の会話が復活
子どもの不登校に気づいた家族はどう行動すればよいのでしょうか。一つのモデルとしてB君のばあいを想定してみましょう。
小学校二年生の一学期に不登校の兆候が現れたB君でしたが、母親に無理やり学校に連れて行かれ、数日は登校しました。しかし翌週の月曜からまたいつもの腹痛が出現しました。学校の先生に電話で事情を話すと「送ってでも連れて来たほうがいい」と言われ、遅刻しながらも送って行きました。
教室に入ってしまうとB君は別に変わった様子もなく元気にしています。早速、担任の先生と話し合い、症状としては「不登校の始まり」かもしれないとのことです。しかし母親も担任の先生もまったく原因として思い当たるふしがありません。とにかく帰って父親と相談することにしました。
夕方帰宅した父親に事情を話しました。父親は腕組みをしながら話を聞いた後、「一度本人に聞いてみよう」と言ってB君を呼びました。「学校の先生が怖いのか」「だれかいじめる子がいるのか」「勉強がわからないのか」「給食が嫌いなのか」―B君はとくにそんなことでは困っていないようです。
「じゃあ学校が嫌いなのか」と尋ねても首を横に振ります。「よしわかった。じゃあ安心だ。お父さんはお前が学校嫌いになったかと思って心配したゾ。お父さんだって少しぐらい頭やおなかが痛くたってがまんして会社へ行くんだから、お前も頑張って学校へ行くんだゾ」と言ってB君を励ましました。
その後、母親は担任の先生にいわれたように毎日B君を学校に連れていくことにしました。そのあいだ、三歳の弟は祖母がみてくれることになりました。
父親は今年から町内会の役員をしていましたが、家がこんな時だからと会長さんに話して祖父に代わってもらいました。そして暇のできた日曜などは親子で出掛け気分転換をはかり、来週一度、会社を休んで、夫婦で担任の先生に相談に行くことなどを決めました。B君の不登校がきっかけで途絶えがちになっていた家族の会話がかえって復活したようにさえ思えました。
B君の家族は、A君の家族とちがい、B君の問題に対して全員が前向きに取り組んでおり、一人ひとりがその役割をはたしているのがわかります。家族というのはちょうど人の体のようなものです。心臓にしろ肝臓にしろ、正しく役割をはたしてこそ、全体として健康でいられるのです。しかし、その役割の重大さは健康なときには気がつきにくいものです。ところがいったん病気になると、元来健康な体の持ち主は全身の臓器や免疫が力を合わせ、病気を治そうとします。ところがそのとき、一つひとつの臓器が正常に働かず、病気をかばう働きをしないと全体として病気を治す力とならず、ますます重症化していきます。
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「人の体」と同じ関係
前項で不登校の子どもを前にした二つの異なった家族の対応について述べ、家族の協力の重要さに触れましたが、そのことについてもう少し詳しくお話しましょう。
私はよく患者さんに説明するときに用いるのですが、家族というのはちょうど人の体のようなものです。少しむずかしく言えば、生命をもった有機的な存在です。どういうことか説明しましょう。
たとえば風邪をひいたとします。このばあい、のどの奥についたビールスに対してのどではビールスに冒された細胞を免疫細胞が破壊するとともに、全身の免疫細胞に協力を求める信号を送ります。信号を受けて全身の免疫細胞はあるいはのどに駆け付けてビールスと戦い、あるいは以前の知識を生かしてビールスを手早くやっつける抗体をつくったり、自分の役目に応じて協力を開始します。また炎症に反応して熱が出ますので、心臓はいつもよりたくさんの仕事をしますし、代謝が盛んになってできた老廃物を処理するのは肝臓や腎臓の役目です。この間、免疫の力が過剰になって余分に自分の体を傷つけないように見張っていたり、免疫の力の調節をする指揮官の役割の細胞などもいます。これらの役割は一つひとつが決して他の器官には肩代わりのできないものですし、秩序正しく協力し合って働いてこそ全体として病気を治す力となるのです。
こうして体の一部に病気が始まると、全体として体が協力することによってその病気を治そうとするのです。そうすることによって病気になった器官は回復しその結果全身としても元どおりの健康体にも戻れるのです。
ところがもしそれぞれの器官が自分の役割をきちんとおこなわなければどうなるでしょうか。のどについたビールスは気管支から肺へと広がり、ついには全身をむしばんでしまいます。あるいは免疫の指揮官の怠慢により、免疫細胞が暴走して体中の細胞を壊してしまうかもしれません。こうなると病気は一つの器官にとどまらず、全身の一つひとつの器官も病気におちいることになります。
このような病気と戦う力がじつは家庭のなかにもあるのです。子どもが心の病気になったばあい、健康な家族ではその子どもを治すために家族の一人ひとりが自分の役割を正しく実行し、全体として指揮官のもとに正しく協力するようにできています。したがってこのような家族のなかでは万が一、子どもに心の病気が発生しても、それを自分たちだけで協力して治してしまえるのです。ところが家族のなかに全体の調和を乱したり、自分の役割をはたさない人が一人でもいると、子どもの病気はどんどん重症化するばかりか、しまいには家族全休に広がり、家族の全員が心の病気に冒される結果になるのです。このばあい、病気の中心である子どもの治療とともに家族全体に対する治療にも目を向ける必要があります。
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正しく機能するには
子どもが心の病気になった時、それを自分たちで治す能力のある家族と家族全員が病気になってしまう家族のあることを前項でお話いたしましたが、ではどうしてこのような差が生じるのでしょうか。
子どもの心の病気がもとで家族の調和が乱れてしまったのか、それとも家族の関係がうまくいっていなかったために子どもが心の病気になったのか、ということはちょうど鶏と卵の関係のようなものですが、あえて答えを出すならば、後者のほう、すなわち家族の問題のほうが先だと言えます。ほとんどのケースで、不登校児童を抱える家庭では、以前より家族関係にひずみがあったにもかかわらず、家族のだれ一人としてそのことに気がついていなかった。あるいは気がついていたのだけれどもあえて口に出そうとはしなかった、というのが本音のようです。
子どもの心の病気がきっかけで以前からあった問題が表面化したにすぎません。少し酷な言い方をすれば、そのような家庭に生まれた子どもはいずれはそうなる運命にあったとも言えます。責任は病気になった子どもにあるのではなく、長年にわたって家族関係のひずみを放置していた、あるいは気がつかないでいた大人たちのほうにあると考えています。何の問題もない家庭のなかで、子どもが手に負えないぐらいひどい不登校に進展するのはかなりまれなことのように思えます。
しかし、では家族のだれに責任があるのか、というとこれがまたはっきりしません。家族というのは皆でつくるものですから、だれか一人の責任とは言えないのです。客観的に判断してこの一人が悪い、と言える人がいたとしても、その人を悪いまま放置していた他の人たちの責任も追及されるべきです。ですから家族が悪いというばあい、家族のなかのある一人が悪いというのではなく、全体として家族が正しく機能していないということなのです。
では家族が正しく機能しているというのはどのような状態をいうのでしょうか。それは、
①夫婦が精神的にも肉体的にも一致していて円満であること。意見の食い違いがあったばあいはお互いに納得がいくまで話し合って、その結果決まったことをもとに一緒に行動すること。
②夫婦や祖父母は各世代のなかだけで①の問題を解決すること。すなわち互いに過干渉をせぬこと。
③大人たちが自分たちの対立のなかに子どもを巻き込まないこと。
④家族のなかに発言権がなくただ従うだけの人をつくらないこと。
⑤兄弟のあいだに愛情の偏りをつくらないこと。とくに③④と関連して兄弟のだれかと母親あるいは父親が家族のなかで少数派のグループをつくらないこと。
⑥家族の皆が自分の役割を正しく実行し、また全体をまとめる指揮官がいること。指揮官は父がいるかぎり父が務めること。
以上の六項目がきちんとおこなわれているばあい、家族は正しく機能するようにできています。